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  • 2014.08.17 Sunday
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SHUNUJU

「自己主張的(外交的)にならないと関係は深まらない」

呪縛、呪いからの脱却。
否定され続けたN年間に終止符を。


生きがいについて

神谷美恵子『生きがいについて』神谷美恵子コレクション、みすず書房
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人間として一層ゆたかに、いききと生きようとするこの種の欲求をマスローは「成長動機」と呼んで「欠如動機」から区別した。後者の場合には欲求不満による緊張を解除しようとする欲求が働くが、「成長動機」の場合にはむしろわざわざ一層の困難や努力を、すなわち一層の緊張を求める欲求がみられるという(pp52-52)

生命を前進させるもの、つまり、よろこび、勇気、希望などのようなもので自分の生体験がみたされているという感じを人間はすべて求めているとかんがえられる。その欲求の強さには個人差があり、生に対してもともとどん欲にできているひとと、つつましやかに、またはのんきにできているひととがある。…しかしまた、たえず飢えかわくように「生存充実感」を求めずにいられないひとは、精神的に苦労が多いかわりにその求めかた次第によっては、人間の存在の深みをさぐることにもなり、いっそうゆたかな生きがい感を体得することもできる。(pp54-55)

現在の幸福と未来の希望と、どちらが人間の生きがいにとって大切かといえば、いうまでもなく希望のほうであろう(pp62)

いずれの場合にも、他人の眼に対して業績をあげることや自尊心を保つことが第一の問題ではなく、何よりも自己に対して、自己を正しく実現しているかどうか、に関係した欲求であると思われる。もしこの意味で自己にもとっているならば、外面的、対人的にどんなに立派にみえようとも、心の底にはやましさの意識がひそんでいて、心の眼はーそしてしばしば肉体の眼までも、自己をも人生をも正視することができなくなり、横眼づかいや上眼づかいをするようになる。(pp72)

「めちゃめちゃに壊されてしまった」自分たちの生すらそれが平和への礎になるならば、その代価としての意味がある。ぜひ意味あらしめたい!というのは多くの被爆者たちに共通な願いである。人間はみな、自分の生きていることに意味や価値を感じたい欲求があるのだ。(pp75)
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色々な思い出が

パチパチとパズルのようにはまっていく。果たせなかった思いが繋がっていく。取捨選択。ねっこはいっしょ、進むべき道は見えたので、あとはそれをどう取りに行くか。自然体でがんばれる。
Everything goes well. 


銭湯はいってたら

なんとなく、はまったかも。
やっぱり、やりたい。急成長中のステージは、いましかできない。
きっと、素晴らしい沢山の仲間と、最高に楽しい時間が待ってる。

プラグマティズムも大切に。


ゆらゆら期

まだ何も確定していないけど、4月に入ってから相当なゆらゆら期になっているので、書いてちょっと気分を落ち着けようと思いまして。

いま多分オプションが2つある。とはいえ、どちらも多分今までとは全然違うオプション。やりがいはあるけど相当大変だろうし、どこまで続くのか分からない。

心はどちらもやりがたっているけど、いざその時が近づいてくると頭がものすごい抵抗している。正直、自分でもびっくりするぐらい、ぐぐぐーっと抵抗している。おかげで、なんか色々ちぐはぐな感じ。「どちらか迷う」というより「そっちに行っては危険が危ない!」と言っている感じ。

どうも、あとちょっとでガシャリと色々はまりそうなんだけど、なかなかはまらない。最初は「できない」「やらない」理由ばかりを無意識のうちに考えていたけど、結局「自分がなにをしたいか」をひたすら突き詰めないと答えはでない、というところまではようやくたどり着いていて、逆にそこまで来たからこそ、いよいよ最後の抵抗を試みているのかもしれない。

社会には色んなベクトルがあって、自分と自分自身がいて、「社会=自分=自分自身」みたいな構造になっている。「自分=自分自身」の対話が意外と難しい、っていう話。

とりあえず、これはきっと最後の抵抗なので、じきに終わるだろうと思って、しばらく共存しながらすごします。


このBlogをiPhoneのSafariにブックマークしているやつがいるらしい

ついすたーだと長い文章が書けないのでこちらへ。もはやただの備忘録だけど。

『さて問題は、母子一体感のような現象が赤の他人同士のもおこりうるかということである。先に結論をいえば、おこりうるから恋愛が成立するのである』
『たとえば恋人の彼が突然、会社をやめて田舎に帰って農業を始めることを決意したといったとき、彼がどんな感情から何をどう思考し、行動するに至ったかを理解、許容し、行動をともにできるかどうかが、ひとつの尺度になる。都会で安定したサラリーマン生活をしてほしいという気持ちを強引に押しつける場合もあるだろうし、あるいは彼の意思決定が彼女の気持ちを全く無視して、自分の論理だけで突進しようとする場合もある。そうなると、そこに共感はなくなり、愛は育たないのである』
(國分康孝『恋愛の心理』p55)

以前、友人と『「知っている」ことと「理解する」ことの違い』という、言葉でかろうじて意思疎通できるぐらいの話をしたことがある。言葉で全部すっきり伝えられないような、こういう言葉のへりをなでるような会話ができるひとは少ないし、通じ合えるひとはそんなにいないのだけれど、その場は不思議と通じ合えた気がする。

上の文章に出会って、ひとを理解するということは、そのひとのこれまでの背景や思考のパターン、価値観、身体感覚、いまの行動に関心を示して、それらを自分なりに有機的に解釈するということなんだなと、なんとなく自分のなかで整理がついた。

とすれば、やはり意図的にお互いを理解しようとする仕組みや取組は大事だし、そういうことに意識を向けていきたいなぁと思うのです。

なにが言いたいかというと、次はこういう感覚を共有できるひとがいいということです。w
もう依存されるのはごめんだー。


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